2006/10/15 「夕暮れからの幸せ」 aaa (マタイ20:1−16) |
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「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。 それとも、わたしの気前よさをねたむのか。」 (マタイ20:15) |
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」 全く資格のない者なのに、その資格が充分あると認められるということは、 人の思いでは到底考えられることではありません。 これはただただ与えようとする側が気前よく振舞われるからこそ可能となることです。 この気前よさを示すために、主人である神が自らでかけられたことこそ、 イエス・キリストによって表された十字架の救いです。 私たちに誇るものがあって応えられたのではなく、一方的に与えられたものですから、 それを感謝していただくところから道が開かれます。 それを自分の思いで図ってしまう時、理解できないからということで 受け入れないのは何とも残念なことです。 気前のよさに従って行くところに、信仰を持っていく喜びがあるのです。 |
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あああああああああああああああああああああああああ江古田教会 牧師 風間 義信 |
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