2016年4月17日 「見えるようになる」 (マルコ8:22〜26) |
今週の御言葉 「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、 よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。」 (マルコによる福音書8:25) |
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盲人を主イエスがいやすという出来事は、悟ることのできない弟子たちの後に記されていますが、 実はこれには意味があります。 盲人の目が開かれ、見えるようになったように、悟ることができない弟子たち、目があっても見えず、 耳があっても聞こえない弟子たちであっても、主イエスの憐れみ深い助けと導きによって、 少しずつ悟ることができるようになるということが示されています。 盲人が主イエスによって段階を踏んで見えるようになったように、弟子たちも段階を踏んで、 主イエスを理解するようになることがこの盲人のいやしを通して示されています。 29節には、弟子を代表するペトロの主イエスに対する 「あなたは、メシアである」という信仰告白が記されています。 この主イエスに対する信仰告白は、まだ不十分なものですが、 全く悟ることのできない状態からは、一つの段階を踏んだある意味ではすばらしい信仰告白です。 どんな人であっても盲人の目が開かれたように、主イエスを理解できる日がやってきます。 神の導きによって悟ることができるようになります。 |
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江古田教会牧師 浅野正紀 |